konokuninohana’s diary

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古今l伝授lの太l刀に出会いたくなかった審神者。

 twitterのフォロワーさんに、古今l伝授lの太l刀に出会い救われた、という人がいる。

 この場合、古今l伝授lの太l刀(検索避けが面倒なので、以下「古今」)とは刀剣乱舞というゲームに登場する刀剣男士だ。その名の通り、古今和歌集の和歌を台詞に用いるうつくしい青年キャラクターである。
 2020年4月の「特命調査 慶長熊本」にて実装され、その後8月にはキャンペーンで全てのプレイヤーに配布された。

 そのフォロワーさんは和歌を専門に研究されていたことのある方で、8月のキャンペーンで古今に出会ったことで和歌と楽しく向き合えるようになったのだそう。その方は以前その旨をブログにしたためバズったことがあるので、気になる人は探してみると良いかもしれない。(とか書いてすみません。もし差し支えあるようなら削除します)
 最近とても仲良くしてもらっていて、通話などで楽しい話を沢山してくれる。で、その通話の中でそのフォロワーさんが「古今と出会えてよかった」と言うのを聞いて、わたしは思ったのだ。

 わたしは、古今に出会いたくなかった。


 少し、自分についても話をさせてほしい。極力、不要なところは端折る。
 わたしは刀剣乱舞のプレイヤーだ。そして多分、古今推しなのだと思う。
 よくいる出戻り審神者だが、別に古今の実装や配布に合わせて出戻ったわけではない。偶然、2020年3月に出戻って、以前から好きだった男士や知らぬ間に実装されていた男士に沸いたりしていた。

 古今と出会ったのは2016年7月。時系列が狂っているけれど別に歴史修正はしていない。そのときに出会ったのはあくまでもかの男士の元となる刀剣本体だ。初期実装の某男士の名が冠された企画にて、同所蔵元の古今も展示されていた。そこで、綺麗な刀だと思った。古今という刀については語るならいくらでも言葉を尽くせるが、さきに書いた通り今回は端折る。でも、いくら不自然であろうと出会ったタイミングを4年前と言い張るくらいには、重要なことだと思っている。
 その後、ゲームに実装された古今を好きになった。元々好きだと思った刀が元となっていることや、特命調査における言動、容姿、どこをとっても好きだが、そこも今回は端折る。
 とりあえず、好きな刀が好きなキャラクターになった。

 さて、話題を冒頭のフォロワーさんに戻すが、わたしはその方の書いたブログを通読はしていない。当時まだその方とは繋がる前だったが、バズっておたのでTLには流れてきた。流れてきたし、多分冒頭は読んだ。でも、全てを読むことはなく、その方とそこに言及していた方をミュートして、それきりにした。わたしは、その方のブログを引用した方が、「こういう人に出会えて古今も一番幸せだろう」(うろ覚え)みたいなことを言っていたのが耐えられなかった。
 わたしは同担拒否だし、その頃は特に、同担以外でも古今についての言及を見ることが苦痛だった。そんな中で、自分でない人間が他者にとっての=古今となるのは許せなかったし、それを許せない自分も許せなかった。

 古今が実装されて少し経ってから、8月11日まで、わたしは古今のことで病んでばかりだった。バスったブログのこともそうだし、それ以外でもだいたい病んで、わたし以外に古今を好きな相手のいない鍵垢に籠もっていた。表垢では、古今について多く言及していたり、古今の二次創作を上げているアカウントを殆どブロックかミュートにしていた。

 なぜ、そうも病んでいたのか。そしてそれが8月11日までだったのか。それは、古今のグッズが存在しなかったからだった。8月11日は、わたしが秋葉原刀剣乱舞STOREまで初めての古今グッズを買いに行った日だ。
 それまでは、いくら好きでもそれを示す手段がなかった、認めてもらう手段がなかった。だから元々和歌に縁があって上手にブログをかける人や、二次創作が評価されている人に対して、自分はひたすらに無力だと思っていた。けれど、買い物カゴに全部のグッズを1つか複数入れて、長めの時間をかけて会計をして、帰宅しそれを並べると、わたしも世界に対抗する手段を得たと思った。以来少しずつ、体調に合わせてではあるが古今に関する言及を目にしても泣いたり怒ったりせずに済むようになった。
 今にして思うと、物量を世界に対する対抗手段と考えるのも大概病んでいる。けれど、少なくともそれ以来どんどんミュート人数は減り、多くの人と関われるようになったのだから大きな進歩だと思う。

 古今について、他の誰かよりも秀でることだけが安心できる方法だった。
 古今の衣装の元ネタ(多分)をひとより早く見つけた、衣装に用いられているフォントを見つけた。刀剣本体についても本を買い国会図書館へ赴き勉強をした。和歌も専門の方には叶うはずないが自分なりに勉強をした。
 ひとつ物を買ったり、ひとつ新しいことを知るたび、心に余裕が生まれる。
 古今に出会ってから、わたしは沢山知らなかったことを知ることができた。古今に出会わなければ、古典に興味のないわたしが古今集を何度も読むことなんてなかっただろう。学術研究と縁遠いわたしが国会図書館の使い方を知ることもなかったかもしれない。出先でアクリルスタンドの写真を撮るのも初めての経験だった。それに、二次創作では無力だ、と言いつつ絵も小説もかいた。節操ないほど色々なことをした。


 その上で、わたしはまだ、古今に出会いたくなかった、出会わなければ良かったと思っている。

 古今に関してのわたしは、ちょっとダメなくらいに必死だ。必死だから、精神の調子がよろしくなかったときには、誤ってる可能性がある資料を公開してる二次創作者の方にDMで凸ったり、舞台で古今を演じる方が自撮りを反転したままなのが気に食わずSNSのDMやコメントに凸ったりした。
 前者は相手方が非常に優しい方で、情報元の共有と支部での訂正をしてくださった上に、こんな最低奴なのになぜか相互になった。後者の件は別のブログで「凸りたいんだけど反転如きでって心狭い?」などと書いたらまあ大体の人に止められたしtwitterの多分鍵垢に引用されてそこでも呆れられたけど、結局はそれらの意見をガン無視してしまった。
 わたしは多分、わりと人に迷惑をかけてしまう類の行動性質がある。後先考えず、相手への迷惑も考えずに行動してしまうことがあった。それを悔いると共に、こんなことなら、自分をそうも動かす激情の元となる古今には出会わない方が良かったな、と思う。

 その反面、古今そのものに対しては多分かなり慎重な方でもある。
 冒頭やタイトルにおいて、わたしは名前の途中にlを挟んでいるが、これは検索避けだ。はてブロは案外に検索流入があるので、刀剣の名前で検索した際にこんなマイナスな内容のブログが引っかかってしまってはいけない。twitterでも、殆どの場合は検索避けとしてあだ名のようなものを使っている。
 全ては、古今に少しの悪影響も与えないためだ。
 前述の迷惑行動との矛盾が激しいが、どちらも狂気による行動なので仕方ない。仕方ないけれど、そこまで気にするならいっそ、わたしみたいなおたくはいない方が古今のためだったんじゃないかなんて考えることもある。

 わたしは、わたしのためにも古今のためにも、古今と出会うべきではなかった。


 話は変わって、わたしは今、古今に関する二次創作のアンソロジーを企画している。

 殆ど知り合いによる小規模なものだが、絵も小説も連歌(!)も入る素敵な本の予定だ。
 古今に出会わなければ、同人誌、それもアンソロジーの主催なんてすることはなかっただろう。それに、8月までのわたしなら他者と協力して他者の二次創作を取り纏めるなんて考えられなかった。でも、きれいな形ではないけれど物量や知識という自分なりの推し方を得てその上で二次創作も楽しむことができるようになった今なら、少なくとも人の迷惑にはならないような行動ができるはずだ。
 今は、色々な方の古今を見られることが楽しみだ。


 わたしは、このアンソロジーを出すことで、古今に出会えてよかったと心から言えるようになりたいな、と思っている。