konokuninohana’s diary

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弱さ・甘さ・優しさ―慶長熊本と綺伝の古今伝授の太刀について―

歌仙「古今伝授の太刀、あなたにはやるべきことがわかっているはずだ」

古今 「……ええ」

歌仙「なぜそれをしない」

古今「……わたくしには……彼を傷つける歌を詠むことは出来ない」

歌仙「……優しいな」

古今「甘いとお思いでしょう?」

歌仙「いや……僕の知っている優しさとは違うってだけさ」

古今「……」

歌仙「僕にはあなたほどの歌は詠めない……でも、僕には僕の歌がある」

古今「……」

歌仙「あなたに聞かせよう……歌仙兼定の歌を」

 

これは、刀剣乱舞-ONLINE-特命調査 慶長熊本 回想其の35『歌心』。極めていない歌仙兼定が出陣していると発生する会話。 

歌仙ちゃんの最後の言葉格好良すぎて痺れる!……ではなくて。この回想は、慶長熊本の地における古今伝授の太刀という刀剣男士の行動理由を最も明確に示しています。 

細川ガラシャを連れて逃走する地蔵行平、彼を止め、歴史改変の核であるガラシャを討つことが刀剣男士に課された役目です。それは先行調査員である古今にしても言うまでもないこと。歌仙の言う「やるべきこと」とは、地蔵を止めること・ガラシャを討つことでしょう。それをしない理由を、古今は「彼(地蔵)を傷つける歌を詠むことは出来ない」つまり地蔵を傷つけたくない・傷つけられないからだと言います。 

ところで、古今にとってのガラシャは恐らく、そう重要な存在ではありません。ガラシャ細川忠興の妻、かれはその忠興の父、細川幽斎の刀です。まあ息子嫁ですし……。それに、ガラシャの受難のひとつでもある『明智光秀からの援護の求めに細川は応じなかった』のは光秀の友人であった幽斎。しかし慶長熊本ではそのことに特に触れはしないので、古今からガラシャへの言及で特筆すべきは、彼女を花に喩えたことくらいです。 

かくてぞはなをめで……、しかし、慶長熊本における古今の最優先は花そのものではなく花守たる地蔵。ガラシャを害さぬのも、彼女に何らか思うというよりは地蔵が悲しむから。歌仙や地蔵といった忠興の刀が彼女に強い感情を抱きながらそれぞれに動くなか、古今の行動理由はひたすらに身内への甘やかしにも似た慈愛です。それを『歌心』では甘さ・優しさと呼んでいます。 

 

さて、ここからは舞台『刀剣乱舞』綺伝 いくさ世の徒花にも触れていきます。 

 

綺伝でも前述の『歌心』に該当する会話があります。会話だけでなく仕草とあわせて描かれる『歌心』。ここでわたしは、古今のひとつの動作に注目しました。 

「……わたくしには……彼を傷つける歌を詠むことは出来ない」と言うとき、かれは自分の抜身の刀身を見つめるんです。 

わたしはこれを、自己確認の動作ではないかと思いました。ある意味1番自分自身であるその刀を見る。そこにはきっと、男士としての自身も映る。そして何より、同刀工の作である地蔵と自分との関わりや地蔵行平という存在を、刀身を通じて確認しているのかなと。 

地蔵行平という刀はとても厄介で、複数ある前提な上にそのそれぞれに関する情報が不明瞭です。それこそ、刀身彫りの神像の正体に諸説ある古今伝授の太刀も、地蔵行平と誤記載されてしまうことがあるくらい。 

先に述べたように、慶長熊本での古今の行動理由はひたすらに地蔵への想いです。だからこそ、そのこころを述べるに際し、刀身を通じてその地蔵と自身の関わりや己の在り方を見たのではないでしょうか。 

 

で、この〈刀身を見る〉という動作を、綺伝作中で古今はもう1度行います。 

(追記:東京公演時点の話です。以降公演についてはこの後の追記参照)

それは、神姿となった高山右近を討った後。「できるなら、このような戦いはもうしたくないものです……」と言いながら古今は、その直前に右近を刺し貫いた自分の刀身を見つめるのです。

これも、自己確認と言えるのかもしれません。というのも、慶長熊本における古今のこころと、綺伝での高山右近のこころには、近いものがあるように思えるからです。 

古今は物事へ好意的かつ、その好意を素直に表現できる刀剣男士です。歌やそれに繋がるような人のこころや営み、もしくは白象に対して、かれは慈愛のようなその好意を惜しみなく示します。そして、地蔵に対しても。地蔵を大切に思うから、好きだから、古今はかれを悲しませたくない。この好意という感情は古今の弱さであり甘さで、しかし、だからこそかれは優しい刀剣男士なのでしょう。 

そして、右近もまた、好意が甘さに繋がるような優しい人間として描かれます。友人である忠興を大切に思い、忠興とガラシャの幸せを願い、それゆえに深い悲しみに落ちてしまう。そんな右近が歌仙と古今を前に語った「あのふたりが大好きだった!」という言葉。そこにあったのは優しい好意であり、それを聞いた古今は辛そうに俯きます。それは右近の痛々しさから顔を背けるためなのか、それとも、相手の在り方になにか感じることがあったのか。 

 

ちょっと話は逸れますが、綺伝のもうひとつ見てほしい古今のシーンに、終盤、桔梗の咲き乱れるなか迎えに来たような忠興とガラシャとのやりとりを、舞台の端で地蔵と目にしている場面が挙げられます。ガラシャの元へ行こうとする地蔵を後ろからしっかりと抱きとめているとき、古今はとても辛そうな表情をしていました。

思えば、これってかれが最初からやるべきかつできていなかった〈地蔵を止める〉ということなんですよね。冒頭で引用した『歌心』で、地蔵を傷つけることはできないからと、しない理由を言っていた「やるべきこと」。

そう考えると、これは古今の『歌心』で言うところの甘さから、少しだけ変化が描かれているのかもしれません。

 

綺伝の原作?である特命調査 慶長熊本で、古今は多分1番喋るけれど、かの時代かの物語において外野と言えるような立ち位置にあります。だって前述の通り、慶長熊本の中心人物であるガラシャと特に関係がないもの。なので慶長熊本や綺伝の鑑賞に際して、かれに注目する必要ってそんなにないと、わたしは思っています。

思っているけれど、けど、それでもわたしはかれの在り方がわかる『歌心』回想が大好きだし、その在り方を更に示してくれた(とわたしは思っている)綺伝の演出が大好きです。

 

(ここまで 2022/6/17)

9/21追記

 

円盤で久々に綺伝の映像を見ました。

で、気付いたんですけど、大千秋楽時点だと古今、神姿となった右近を討った後に刀身ではなく自身の掌を見つめるんですね???*1

わたしはかれのその動作を刀剣男士としての自身の確認と捉えていたけれど、もし掌を見つめるのを正とするならそれって刀剣とかそういう器物属性を抜きにした、人としてのような人らしいこころを見つめていたのかもねって。

古今伝授の太刀を刀として愛している身からすればかれが自分を過剰に人らしく捉えているのはかなしいなあって思わなくもないけれど。でも刀剣乱舞原作からしてかれはこの主さまの意に反するくらい人間らしい態度をとるから、ステのこの変更も理解できなくはないです。むしろ、刀身を見つめるよりもかれらしいかもしれない。わたしはかなしいけれど。

わたしは刀剣男士 古今伝授の太刀の在り方を全部わかろうとしているおたくで、かつそのなかでかれの在り方の一部にどうしても自分で説明できないところがあって。そういうわからなさを、ステでまで感じさせられてしまって一生呪われた気持ちなので、とりあえずあと一万回くらい円盤見て、ついでに演者も適当に追って、そうしてステ古今と自分のまなざしとの距離を測っていきたいです。

何か新しい気付きがあれば追記します。

*1:(なぜ配信で気付かないの)(超飲酒モードだったので…)